公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載2 (日本一のヒバ林の隠された謎に迫る) |
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94.第三者委員会という儀式 2025/1/23 93.チンドン屋さん 2025/1/22 92.人手不足 2025/1/8 91.もう一つの公然の秘密 2024/12/5 90.ヒバ林の会 2024/12/2 89.わけの分からぬ 家族信託―その2 2024/9/27 88.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載14 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/9/3 87.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載13 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/9/3 86.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載12 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/9/2 85.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載11 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/8/22 84.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載10 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/8/9 83.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載9 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/8/5 82.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載8 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/7/26 81.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載7 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/7/22 80.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載6 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/7/16 79.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載5 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/7/3 78.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載4 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/6/18 77.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載3 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/6/5 76.和をもって貴しとせず ーその2 2024/6/3 75.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載2 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/5/24 74.公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載1 (日本一のヒバ林の 隠された謎に迫る) 2024/5/14 73.スポーツ賭博 2024/3/22 72.公然の秘密 (幻の日本一のヒバ林) 2024/1/12 71.公職選挙法違反 2023/1/25 70.悪い奴ほどよく眠る 2021/5/27 69.和を以て貴しとせず 2021/3/16 68.神々の葛藤 2021/3/1 67.パチンコ店が宗教施設に 2021/2/12 66.日米の裁判の差 2021/1/22 65.ネットでの中傷 2020/10/23 64.素人と専門家 2020/7/29 63.税金の垂れ流し 2018/2/26 62.区分所有建物の 固定資産税 2017/7/28 61.わけの分からぬ家族信託 2017/3/8 60.呆れるしかない広島訪問 2016/5/31 59.さらば民主党 2016/3/28 58.越後湯沢の惨状 2016/3/7 57.権威を疑う 2016/1/25 56.年間200億円 2015/12/15 55.小仏トンネル 2015/8/6 54.18歳で選挙権 2015/4/20 |
本件の中身に入る前に、読者が本ヒバ林がどこにどのようにあるのかを理解できるように、現在の国土地理院の地図を本書に別紙1として添付します。地図に手書きの斜線で示されたところが、本ヒバ林ということになります。本書を読む際には、この図面を意識していただくと、理解が容易になると思われます。それでは、本件の中身に入ります。 南部藩によるヒバの保護・育成 江戸時代、下北半島は南部藩(後に盛岡藩)の所領であり、ヒバは当時から優れた建築・家具資材として尊ばれ、大切に保護育成されていた。各村々に地元の山守頭が置かれ、管理をし、盗伐に目を光らせていたわけである。佐井村の山守頭を命じられていたのが坂井家でその当主は代々源八と名乗り、明治維新の際の当主は17代の源八であった。後に触れるような事情や火災もあり、古い書き物の大半が失われているが、残された資料の中に佐井村の山守絵図なるものがあり、江戸時代におけるヒバの生育状態が記されている。驚くことに、各山々にどのくらいの数のヒバがあるかが示されている。現代と負けず劣らず、江戸時代における森林(ヒバ)の管理は徹底されていたことが知られる。 そうした中で、坂井氏の話や郷土資料によると、寛政年(1791年)に東北地方を襲った飢饉に際して当時の坂井家当主が蔵にあったコメを村人に拠出して餓死者を出さなかったという善行に対し、藩からご褒美として「源右衛門」という名を賜るとともに、牛滝川上流の石山沢の左岸のヒバ林の下賜を受けたということである。このヒバ林の下賜の事実を直接物語る資料はないのだが、山守絵図をよく見ると、この石山沢の西岸の箇所だけが意図的にヒバの表記が省略されていることが知られる(資料1「山守絵図」札10番から14番と記載のある部分)。坂井氏によると、ヒバ林の下賜を受けたことからそこは坂井家の固有のヒバ林となり山守頭として管理する山から外れたために何も記載されていないとのことであった。 こうした背景の中で、明治の世を迎え、土地・山の所有制度と租税制度が根本的に変更となり、その後のヒバ林の所有を巡る混乱を呼び込むこととなる。 下北郡佐井村字牛滝川目130番 明治になり、私人が所有する土地には筆番号が付され各筆ごとに地券なるものが交付されることとなった。全国一律にこの制度が適用され、佐井村においても同様に地券が交付されたわけである。この石山沢西岸のヒバ林については、字牛滝川目130番という地番が割り当てられ、17代坂井源八に対して地券が交付された。しかし、その地番の面積はたったの1反6畝2分(330坪程度)という小ささであった。今では考えられないことであろうが、当時は、突然の土地所有制度の改革と地租という租税の徴収制度に対する不安・嫌悪感から、多くの人が実際より少ない面積で地券を受けていたのが実態であった。山林のように隣地との境界が外から見にくいところ、特に国有林と接するような所、では極端に小さく登録(申請)するのが常態であったようである。役所も営林署も大目に見ていたわけである。そこには、坂井家が地元の名家であり有力者であったことも影響していたと思われる(資料2「東奥日報の記事」)。しかし、そうしたもたれ合いが後に混乱を生じさせる遠因となったのであるが、本書の中心テーマに関わることのなので後程改めて触れることとする。 また、その後に土地台帳制度が制定され、その付属地図において、130番の土地は牛滝部落の河口から東南に半島内部の野平へと続く旧道にその北面を接し、東を牛滝川の支流の石山沢に接する土地として描かれていた(資料3「字牛滝川目の土地台帳付属地図」全体の縮小版と130番の部分図)。そして、この旧道に沿ってそのすぐ北側を牛滝川が流れていたのであるが、何故か、このヒバ林の辺りではその記載(青色の線)が漏れており、このことがその後の紛争を引き起こす一端となったものである。 ここで少し江戸時代から明治にかけての時期の牛滝につき述べると、今では考えにくいのだが、当時、坂井家は、南部藩から委託を受けた山守頭の地位にあったに留まらず、いわゆる北前船を数隻所有し、下北周辺の海産物や特産のヒバを手広く扱い、豪商としてその名声は広く江戸・大坂にまで知れ渡っており、そうした活躍を記した坂井家の古文書が東京都の図書館他にも保管されているところである。その一端が、上記した新聞記事に示されているわけであるが、こうした事実は、単に当時の坂井家の隆盛ぶりを示すだけでなく、牛滝という部落自体の当時の隆盛を示しており、そこを流れる牛滝川は、いわゆる辺境の地にある小川に過ぎないのではなく、それに沿って走る道と共に内陸部で伐採されたヒバを牛滝湊まで運ぶ重要な役割を担っていたものである。そのような重要な産業の動線を担う牛滝川や野平への道が、その後の裁判が認定するように大きく間違って(土地台帳付属地図に)記載されるなどということは、そもそもあり得ないことと言えるはずである。本連載の中心テーマの一つであり、この点については後日改めて詳細に触れることとする。 ―続くー |
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