公然の秘密―続編 罠にはまった裁判―連載4 (日本一のヒバ林の隠された謎に迫る) |
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前回、明治における謎のヒバ林の分筆登記のことを説明しましたが、今回は同じように不思議な昭和初期の毎木調査(山にどのような木がどのくらいあるかの調査)を取り上げます。実は、後の昭和30年代から始まるこのヒバ林に関わる不可思議な出来事やこれまた不可思議な裁判の展開を理解するためには、どうしてもこうした歴史的な背景やヒバ林そのものを理解して頂く必要があるからです。17代源八から18代源八への坂井家でのバトンタッチと合わせて説明します。ただ、その前に連載3で触れた分筆測量図に関する説明をもう少し丁寧に補足します。 二つの図面の完全な一致 資料4(字界図)を初めて見たとき、私は、それがずっと探していたヒバ林全体を示す図面であることに満足してしまい、それが分筆申請書に添付された測量図面(資料5)のぴったり10倍の実測値を示す図面であることに直ぐには気が付かなかった。字牛滝川目130番という地番が石山沢とその西側の山の峰に囲まれた広大な東向きの山の斜面を意味しているということに気を取られてしまい、そこに記されている数値にまで思いが及ばなかったわけである。しかし、その後しばらくしてそこに表示されている数字を見ていてそれらがどこかで見たような数値であることに気づき、改めて申請書添付図面に小さな文字で書かれた数値と読み比べてみた。そうすると、それらが正確に1:10の関係にあることに気づき、びっくりした次第である。要するに、実測測量図の距離は登記申請の添付図面よりゼロが一つ多いのである。「何だ、そうだったのか」という驚きである。そして、ここで二つの書面が結びついた。申請書添付の図面はいかにも簡略でスケッチのようでありとても実測図とは思えない外観なのであるが、それは外見だけで、その内実(数値)は本物だったのである。ただし、10分の1の単位に縮小された数字で表示されていたわけである。そして、この10分の1の距離に置き換えられた縮小図が土地台帳付属地図にも反映されているわけであるが、それを別紙1の国土地理院の地図上に反映させるとほぼ反対方向の斜め斜線で示された部分となる(別紙1−2、ただし概略図)。 ただ、この分筆申請の添付図面の数字はかなり見にくいので個別に説明を加えることとしたい。130番の壱号と弐号を分けている斜めの斜線の横にある数字は114又は174と見えるところ、それに対応する字界図の数字は1104歩か1704歩と読めそうであり、ほぼ1:10の関係にあることが知られる。添付図面は数字だけが記されているが、字界図ではその単位として「歩」が記されているわけである。そして、より明確なのは枝小川の横に記載された217という数字であり、これに対応する字界図の数字は2170歩でありぴったり1:10対応をしている。その他の数字もよく見ると添付書面の数値を10倍していること(ゼロを一つ加えていること)が確認できる。1歩は約1.8メートルの距離なので、概算すると字界図での130番の面積はざっと360万平米あり100万坪ほどとなり、登記簿面積の約100倍となるわけである。17代源八が実際の測量図の完全に10分1の長さの縮小図で登記申請をしたものであることが知られることとなる。よく考えると、添付図面で官林峰で仕切られていると記されていても石山沢の川辺からそのような距離(数十メートル)を山に登っても山の峰はおろかその中腹にもにも達しないことは明らかなのであり、少しでもこのヒバ山のことを知っている人が見ればこの添付測量図が距離単位を縮小していることは一目瞭然だったはずなのである。登記に関わったもの全員が「10分の1の距離に縮小された図面による申請」であることを承知の上だったというわけである。このように分筆申請書添付の測量図面の謎が解けて、私はこのヒバ林が、その全体として、坂井家が南部藩から下賜されたものであることを完全に確信することとなった。 なお、18代源八の名誉のためにさらに一言付け加えると、添付測量図には数値が記載されているだけで、字界図のようにその単位、歩、の記載がない。従って、この測量図の単位は「10歩」であるとする強弁が許されるなら、その記載に間違いはないこととなってしまう。申請書面に面積を3町ほどとしている以上かかる強弁に何の意味もないかもしれないが、気持ちの上ではそれが源八の意図であった可能性はあるように思われる。 坂井家の代替わりと昭和10年の毎木調査 天保10年生まれの17代源八には子供がおらず、大正元年に伊世良吉を養子に迎え、同時に弟の息子で甥にあたる坂井覚治の娘でしっかり者で通っていた「りそ」を良吉の嫁として坂井本家に取り込んでいる。良吉は実質的には婿養子であったわけである。そして、その後まもなく大正5年に源八が亡くなり、良吉が坂井家の家督を継ぐとともに18代源八を名乗ることとなったわけである。詳細は不明であるが、18代源八は読み書きが不自由であったとのことであり、17代源八から実質的な後継ぎとして期待された「りそ」がその後の坂井家を取りまとめていったとのことである。りそは聡明な女性であったらしく、坂井一族全体の調整役でもあったと伝わっている。本件の主人公である三郎氏はそのりその三男にあたるわけであるが、長男が若死にであったため、世間的には次男とみられている。 18代源八が誕生してから20年ほどたった昭和10年に、このヒバ林の毎木調査が行われており、そのことを示すのが資料6「毎木調査表」なる書面である。印字が薄く、非常に読みづらいのだが、そこに記載された内容をそのまま記すと以下のようになる。 所在地:青森県下北郡佐井村大字長後字牛滝川目130の4 地籍: 120町 樹齢約300年〜400年 樹種青森県ヒバ とタイトル書きを付して、その下の一覧表には、 直径 樹高 ?材積 立木本数 材積 cm m m³ 本 ・・ ・・ ・・ ・・ ・・・ ・・ ・・ ・・ ・・ ・・・ といった各欄が設けられ、縦軸に沿って木の幹の直径で区分けがされ、それぞれの調査結果の数値が対応する横の欄に記されている。一番太い幹の直径は66cm(以上)と分類されている。これらの数値を読むとこのヒバ林がどれほど素晴らしいかが一目瞭然であり、見てすぐ分かるのは、小さな若い木よりも、圧倒的に樹齢を重ねた大木が多いことである。基本的にヒバは伐採した後にそこに代わりの苗木を植えて長い期間をかけて世代交代をさせるようであり、明治以降ほとんど伐採が止まってしまったこのヒバ林は圧倒的に大木が主になったものと思われる。なお、地番が130の4と記載されているが当時は130番の1と2しかなく、それが誤記であることは間違いがないのだが、地積が120町と記載されており、本ヒバ林全体ではなく、その一部のようにも思えるが、いまだその点の解明は出来ていない。常識的に考えると、このヒバ林全体を1:2で分けて調査するというのは現実的ではなく、山全体のヒバを調査したと思われるが、そうなると何故120町との記載がなされたのか、辻褄が合わないところである。 合計欄を見ると、本数は49,644本とされており、その総材積数は10万7278m³と記載されている。この数字だけでは実感が沸かないが、仮にこれだけのヒバが後に述べるこのヒバ林の実測面積である56万坪に生えていたと仮定すると、約10坪に1本の割合でヒバが林立していたこととなり、その大部分が樹高20メートルを超す大木であるというのであるから、さぞかし壮観であったろうと思われる。そして、この数値は今から90年ほど前のものであり今ではさらに大きくなっているところである。 その下の注意書きには、 @として、総材積数が38万6200石となる、とされ Aは判別が出来ない。 縦書き部分は、作成者名を記したものと思われ、 岩手県下閉伊郡岩泉町森林組合調査によるものである、とされ、 日付は、昭和10年11月10日調査、とある。 最下部の横書きの住所は、青森県上北郡野辺地町との記載と思われるがその後の文字の判別が出来ない。坂井氏によると、当時坂井家は野辺地町の弁護士さんと関係を有していたのでその人を経由して岩泉森林組合に毎木調査を依頼したのでは、とのことである。 本来、この一覧表には表紙がついており、かつてそれを見たことのある坂井幸人氏はその表紙の宛名には坂井源八と記載があったことを記憶している。ただ、残念ながら、現在手元で確認できるのはこの一覧表のみであり、その表紙は見つかっていない。 また、後に日本中からこのヒバ林を巡って投資家が押し寄せたころには、この毎木調査表のコピーが広く材木業界に出回ったとのことである。しかし、林野庁との係争が顕在化した後のある時期を境にこの調査一覧表はぴたりとその姿を消したそうである。 実は、この毎木調査も、前記した明治の分筆と同じくらいに、不可思議なのである。私はこのような毎木調査にどの程度の費用がかかるのか全く知識がないが、仮に一人が1日で確認できる本数を大目に見て100本とすると、約5万本の木を(その太さや樹高の測定を含め)数えるためには500日を要することとなる。実際には数人で手分けをするのであろうが、いずれにしろそれだけの人件費がかかるわけであり、仮に今の価格で日当2万円とすると約1千万円相当の費用が掛かったこととなる。半額で計算しても500万円である。もし、作業員の泊まり込みが必要ならさらに宿泊費がかかってしまう。しかし、それだけの費用をかけてまで毎木調査をしたのに、その後このヒバ林をその結果に基づいて処分しようとしたりそれに基づき何かをしたという形跡が全くない。毎木調査自体はりその判断でなされたものと思われるが、明治の分筆と同じで、この昭和10年の毎木調査も一体何の目的であったのかが、不明なのである。 私は、やはり、それは明治の17代源八による分筆と同じく林野庁と手打ちをするために毎木調査が必要と思われたからではないかと推察している。それ以外には想像しようがないのである。しかし、それにより何ら具体的な解決を見なかったのも明治の分筆の際と同じ結末となっている。ある程度までの話の進展はあっても最終的にはそれがまとまらない、といったことの繰り返しであったようなのである。そして、開戦・終戦を経て、次回の連載で触れる終戦後の林野庁との隠れた交渉へと続くわけである。 2年ほど前に、何とかこの調査表の全体を手に入れられないかと思い、岩泉森林組合(現在は統合されて奥州森林組合)に連絡を取ってみたのだが、あまりに古すぎて探し当てることは出来なかった。ただ、上記したように一時期この資料のコピーは材木業界にかなり出回ったとのことであるから、誰かは完璧なコピーを今も所有していると思われる。 この調査表は、このヒバ林のすばらしさを物語っている。このようなヒバ山は、当時も今も、日本中を捜しても他にはないのである。戦後に投資家が押し寄せていたころのことであるが、山の中に入った材木業者が「こんな山は他では見たことがない」と驚いたそうである。 ところでこの調査表は、ヒバ林の立派さを示すだけでなく、前回述べた分筆と同様に、坂井家がこのヒバ林を自分たちの所有物と認識していたことを雄弁に物語ってもいる。明治に入ってから70年近くがたっても、坂井家は江戸時代から受け継いだヒバ林を自分たちのものと認識していたこととなる。それにもかかわらず、過去の裁判においては投資家がこの毎木調査表を坂井家がヒバ林を所有していたことを示す証拠として提出した形跡が見当たらない。不思議である。私は、この調査表を証拠提出し、少なくとも戦前に坂井家はこのヒバ林を自己の所有物と認識していたこととそれに対して林野庁が特段の反対意思を示した形跡がないことを主張すべきではなかったか、と思っている。本来的に営林署の監督下にあるはずの森林組合が行った毎木調査であり、林野庁も反論に窮したであろうと思われるのである。後の連載で触れるが、戦後の裁判においては、林野庁は一貫してこのヒバ林につき「明治以来の国有林であり私人とは一切紛争はなかった」と言い切っている。そしてそれがそのまま裁判所に受け入れられてしまっているのである。 もっと言えば、これだけの桁外れと言っていいヒバの美林であり、もしそれが国有林ということで明治以来ずーっと確定していたのであれば、岩泉町森林組合は当然そのことを承知していたはずである。そうすると、毎木調査の依頼を受けても、森林組合としては「坂井さん、この山は下北営林署が管理する有名な国有林ですよ、いくら貴方に頼まれても勝手に調査は出来ません。」と断ったはずなのである。そして、読者もすぐに分かるように、なぜ、坂井家がわざわざ他県の森林組合に調査を依頼したのかも、想像がつく。普通なら地元の森林組合に依頼するのであろうが、そこを監督する営林署と山林の境界でもめているのでは、他県の森林組合に頼むしかなかったということであろう。いみじくも坂井家と下北営林署の微妙な関係を雄弁に物語っているわけである。 このような過去の経緯を踏まえて考えると、戦前においては、このヒバ林の所有権につき、より正確には字牛滝川目130番という地番で坂井家が所有する土地がその登記簿面積(約1万坪)からどこまで広がっているのかにつき、国との間で争いがあったのは紛れもない事実と断定することが可能となる。しかし、坂井家も林野庁も互いにその主張の決め手に欠け、その境界線につき手打ちすることが出来なかったものと推察される。そして、少しひいき目に見ることが許されるならそうした折衝においては坂井家の方が幾分優勢で、2:1程度が一つの妥協点となる可能性があったように感じられるところである。しかし、それが戦後の意外な展開から大逆転してしまい、すべてを林野庁が取得することとなってしまったわけである。次回はこの続編の主戦場の入り口の手前にまで進むこととなる。 ―続く― |
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