大きな災害と個人的な不幸での被害者救済の差 | ||||
37.アンコールの拍手 2012/12/27 36.総選挙、やれやれ 2012/12/17 35.祭りの会その後 2012/12/11 34.地震予知失敗で 禁固6年 2012/11/22 33.「ねじれ国会」って 何やねん 2012/11/14 32.暴力団撲滅に反対? 2012/10/24 31.法学教育 2012/09/24 30.人が変わる 2012/09/04 29.和牛商法とテレビ広告 2012/08/22 28.政党は、意見の差 というより、 選挙母体の差 2012/08/03 27.政党の存在理由 2012/07/27 26.祭りの会 2012/07/20 25.投票に行って 一万円の日当を もらおう! 2012/06/27 24.選挙のあり方 2012/06/20 23.大きな災害と 個人的な不幸での 被害者救済の差 2012/06/11 22.才能と所得 2012/05/18 21.さらに固定資産税 について 2012/04/19 20.ゴルフ場にかかる 固定資産税 2012/03/21 19.バカは死ななきゃ 治らない 2012/03/02 18.子供の火遊び 2012/02/13 17.知的財産権の保護 2012/01/16 16.10センチ・20センチの 津波予報を当てて 何になる 2012/01/11 |
今回の東日本大震災においてもそうなのだが、大きな災害が起きて多数の人が被害をこうむると、政治や行政が、マスコミとも一体となって、ある種の救済に乗り出す。救済がおかしいというのではないが、個人的な不幸・災害にあった人に対する場合との比較において、割り切れなさを感じている。そして、先ごろの新聞記事によると、関東の竜巻の被害者に対する救済に関して、法律で「10軒以上が全壊したところ」とそうでないところではっきりした差を設けているため、同じく竜巻にあいながら、救済を受けられるところとそうでないところが生じているとのことであった。こうなると、どうせ竜巻に被災するなら、是非とも10軒以上で被災したいものである。 個人的な不幸・災害でも、それが交通事故の場合は、大部分の場合において、保険制度が、少なくとも表面的な金銭的賠償をしてくれる。しかし、犯罪等による被害や、自然災害でも個々的なものについては、現実には、「お気の毒」と言われるだけで、何らの救済も、行政からもその他の制度からも、受けられないのが実情である。私も、そうしたお気の毒な人の事件に、時に関わっており、実体験として、そうした違いに何やら不公平感を感じてきている。 いい悪いは別にして、何故、こんな違いが生じるのかと、ながらく考えてきた。そして到達した結論が、当たり前のことだが、前者は票になるが、後者は票にならないということがその根底にあるような気がする。もし、そうであれば、これは、何ともやりきれない話である。そして、マスコミは、視聴率か、販売価値からか、結果的に同じような区別で不幸な出来事を取り扱っているわけであり、これではいつまでたっても、お気の毒な人たちの救済は難しいこととなる。 大きな不幸であれ、特定の人に対する不幸であれ、行政的な救済は同じように施されるべきが筋ではないかと思われる。それは、むしろ、共同体としての当然の責任ではないのかとさえ思われる。ことによると、昔むかしは、そうであったのかもしれないという気がする。 それが、選挙が全ての民主主義の世界、時代、になってかえって共同体としての助け合いが崩れてしまっているとしたら、何ともやるせない話である。何かいい知恵があれば、教えてもらいたいところである。 |
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