才能と所得 | ||||
37.アンコールの拍手 2012/12/27 36.総選挙、やれやれ 2012/12/17 35.祭りの会その後 2012/12/11 34.地震予知失敗で 禁固6年 2012/11/22 33.「ねじれ国会」って 何やねん 2012/11/14 32.暴力団撲滅に反対? 2012/10/24 31.法学教育 2012/09/24 30.人が変わる 2012/09/04 29.和牛商法とテレビ広告 2012/08/22 28.政党は、意見の差 というより、 選挙母体の差 2012/08/03 27.政党の存在理由 2012/07/27 26.祭りの会 2012/07/20 25.投票に行って 一万円の日当を もらおう! 2012/06/27 24.選挙のあり方 2012/06/20 23.大きな災害と 個人的な不幸での 被害者救済の差 2012/06/11 22.才能と所得 2012/05/18 21.さらに固定資産税 について 2012/04/19 20.ゴルフ場にかかる 固定資産税 2012/03/21 19.バカは死ななきゃ 治らない 2012/03/02 18.子供の火遊び 2012/02/13 17.知的財産権の保護 2012/01/16 16.10センチ・20センチの 津波予報を当てて 何になる 2012/01/11 |
相当昔のことだが『土俵には金が埋まっている』『グラウンドには金が落ちている』といった言葉を聞いた記憶がある。若い力士や選手に対して、やればやるだけ収入が増えることを知らせて、いわゆる実力の社会でのやる気を鼓舞しようとした言葉であろう。でも、本当は、土俵にも、グラウンドにも、お金は落ちていない。彼らの手にする高額の収入は、土俵やグラウンドから来るのではなく、その大部分は、テレビのスポンサーの広告収入で賄われているのである。 私は音楽の才能がなく、それをたしなむ素養もないが、モーツァルトはすごいなとまでは感じることがある。そんな大天才であったモーツァルトが、貧困と失意の中で若くして亡くなったとか、あるいは、日本でとても人気の高いゴッホも同じように不遇な一生を送ったと聞いて、何故昔の大芸術家は、そのほとんどが貧しく、現代の一般の芸術家、とまではいかない芸能人、はいい生活が出来るのか、と不思議に思ったことがある。どちらも、実力・才能の世界のはずなのに。 で、最初の話しに戻るのであるが、よく考えると、実力の世界と言われていても、それは、相撲や野球の力量のことであり、その結果得られる収入は、その実力というものとは別の要素からきていることが分かってくる。昔は、歌がうまくても、その「実力」を発揮できるのは、夏の盆踊りの際に、村人の踊りの輪の真ん中のやぐらの上で唄を歌い、たらふくお酒を飲める程度の見返りしかなかった。それが、ラジオ、蓄音機、テレビ、ビデオといろんな技術の発展に伴って、そして最近では、企業広告の一環として、歌い手が利用されるようになり、盆踊りの輪から抜け出たわけである。そして、それを著作権法という法律で後押ししてもらって、タダ酒にしかならなかった「才能」が莫大な収入をあげる「才能」に変化したわけである。相撲や野球の才に恵まれた若者も、以前はそれによって得られるのは、たらふくご飯が食べられる程度のものであったと思われる。考えてみると、実力の世界と言われているもののほとんどが、その収入の源泉に関しては、多かれ少なかれ、こうした流れの中にある。 そこで本題だが、いわゆる高額の所得と言うものは、どうも、その人の実力と言ったものからではなく、もちろんそれもあるが、むしろ、社会の制度・仕組み全体の恩恵からきているのが大部分であることが知られる。そうであれば、一定の金額を超すような高額な所得が社会に還元されるのは、むしろ、当たり前である気がする。子供のころ、田舎で、島一番の魚とりの名人と言う人につりを教わったことがある。結局、そのこつはよく分からなかったが、傍から見ていても、「うまい」という感じだけは受けた。でも、そんな島一番の名人でも、他の人の10倍も20倍も魚を取れるわけではない。せいぜい3倍・4倍であったであろう。 スポーツや芸術と言ったもっとも才能・芸術がものをいう世界ですらこの状態であり、一般の企業経営、特に金融・投資取引からの所得、あるいは近頃もてはやされているIT関係の商売なるものが、いかに社会の制度に乗っかった儲けであるか、言うまでもあるまい。そして、リーマンショックとやらに見られるように、投資に失敗すると、彼ら(金融・投資)は、今度は、当然のごとくに社会の仕組みとしてその救済を要求するわけである。 昭和の最後のころにバブル景気とかいうものが出るころまでは、日本は、高額所得者に対する所得税が飛びきり高かった所為か、来日した共産圏の国のトップが驚くほどに、「貧富の差の少ない国」として有名であった。その後、欧米流の宣伝に毒されたのか、あるいは、知ったかぶりの経済理論からか、所得格差を設けるのが当然のような流れになってしまったのであるが、大震災の復興や、原発事故処理に絡んで、増税論議がなされている今、 所得の本質が何かについても、一度、深く考えてみるべき時期が来たように思う。そういえば、お金が全てのようなところのある米国社会ですら、ウォールストリートのデモに見られるように、近頃少し違う動きが生じてきているようである。 |
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