(福島)原発事故と賠償責任 | ||||
15.オリンパス問題と 監査法人 2011/11/10 14.内容証明郵便は 合憲か? 2011/09/28 13.無罪判決 2011/09/14 12.内閣の記者会見は バラエティ番組? 2011/09/12 11.首相が変わって 何がどう悪い? 2011/09/01 10.風評被害と マーケットの力 2011/08/01 9.裁判員は素人か? 2011/06/30 8.原発の安全性と マーケット機能 2011/06/09 7.昔の方が、まだ、 ましだった? 2011/06/02 6.ちょっと気分と角度を 変えて原発問題を考 えてみる 2011/05/19 5.科学的な地震予知? 2011/04/25 4.(福島)原発事故と 賠償責任 2011/04/18 3.地震で思い出した 祖母の話 2011/03/28 2.103歳のジャッジ 2011/02/02 |
まだ、どのように収束するのかもはっきりしないので、今の事故に対する賠償問題がどのようになるかを議論しても仕方がない気もするが、今回の事故の処理云々ではなく、たまたまこのことがきっかけで少し原発事故に対する賠償問題を勉強してしまったので、そこで気のついたことをお話ししたい。 結論的に言うと、「支払えっこない額を支払うと言うのは、支払う気がないのと変わりがない」ということである。原発は、其の事故の結果があまりにすごいので、国際条約等では、賠償責任を一定に抑えているのが普通のようである。その代わりに、一切の責任逃れを許さないというのが基本のようなのである。これは、さっとネットで見た限りのことであり、ことによると私が誤解しているところもあるかもしれないが、この基本的な方針の方が規制の意図が素直に理解ができるのは、間違いない気がする。 日本の賠償責任法は、「天文学的な賠償金でも当事者に責任があるとする一方で、『異常に巨大な天災』の場合は免責」という、一見合理的な、しかし、良くよく考えると不可解な法的仕組みとなっており、今、関係者や投資家の間で、「いったい、今回の件はどっちになるの」とあれこれ議論がされているわけである。福島がどっちに入るか云々ではなく、このような規定が持つ意味を少し考えてみたいと思う。 我々は、仕事上、『権利はあるが取れないお金』という問題にしょっちゅう出くわしている。一生働いてもらっても、金利の支払いにしかならないようなケースが出てくるわけであり、権利があるといっても、正に、絵にかいた餅である。電力会社には高い賠償能力があるといっても、一民間企業に本格的な原発事故の際の賠償能力があるわけがないことは、誰にでもわかることであり、「青天井に責任を負うという規定」の本当に意味するものは何なのか、疑問がある。他方、恐らく、一定の限度額を設ける意図は、「払えもしない額の責任を認めたところで意味がない」という発想とともに、一定の金額的な基準を与えることで、経営上の判断の指針を与えて、経営者・投資家に緊張感を持たせるということを狙っているのではないかという気が、私にはする。青天井の責任では、『いざとなったら、ぶっつぶれるか、免責で逃げるかのどちらか』というのでは、企業が、本気で、いざという時のことを考えるのは、決して簡単ではない。 どちらがいいかは、言葉の持つ表面的な理屈で決まるのものではなく、実際上の機能でその優劣を決めるしかないが、今回の様子を見ていると、「異常かどうか、想定外かどうか」などといった(つまらない)議論を省けるだけでも、一定限度までの絶対的な責任の方が、機能としては優れているように思われる。 本来、隕石直撃のような本当に異常な災害が来れば、法律の規定がどうであれ、何の意味もない。日本自体が沈没するのだから。今の規定は、本来的には、それが機能することは、少なくとも自分が生きている間には、ないことを前提に作られているともいえる。「言葉として響きのいいもの」は、中身がないことが多いが、今の原発賠償の規定にもそれが当てはまるようである。法律制定の際、限度を設けるとしていれば、『(それを)いくらにする』ということでいろんな議論が百出したはずである。それを、恐れていたのが、実態であろう。 逆に、法律で限度額を設けていた国では、福島の惨事を見て、『(今の数字は)少なすぎるのでは』等々の議論が出始めているようである。こちらの議論の方が、実がある気がする。 |
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